今回は 養護施設協会編「作文集 泣くものか」の紹介 2回目です
本書は理由あって保護者と別れ養護施設で過ごす
児童・生徒の作文集です
今から35年ほど前に
出版された本ですが古さを感じません
現在は虐待を理由とする養護施設への入所が増えていますが
35年前はまだ 病気や死別を理由とする入所が多かったころです
わたしの小中学校時代 校区に養護施設があり友達も何人かいました
「どうしてそこに入ったのか」
とは聞かないので 理由は分かりません
本書に 同窓生と思われる子の作文も載っています
読むと涙が湧いてくる本です
皆と変わらない様子だったのに…
心のうちを 知りませんでした
辛かっただろうなと思います
今でも年賀状のやりとりをする友達もいます
毎年同窓会で会話する友達がいます
幸せに生活する彼らを見て ほっとします
それと同時にこれらの作文を書いた子どもたちが
幸せな生活を送っていることを願わずにはいられません
大好きなのは父母 辛い思いをする子が少なくするために
私たちに何ができるのか 考えていかなくてはと思います
昨日 22日(日)本日まで
浜松駅前の遠鉄百貨店で開かれている
「浜松ジオラマファクトリー」プレ展示に出掛けました
6階の旧館・新館の通路部分の展示場で 開かれていました
山田卓司さんの代表的な3つの作品を楽しむことができました
観客の顔はにこやかなものでした 楽しい会話も聞かれました
思わず懐かしくなる、楽しくなる作品なのでしょう
作品は3点ではありますが 十分に楽しめるものと思われます
今日も町に出た折 寄ってこようと思っています
☆『作文集 泣くものか』 養護施設協会編 亜紀書房 1977年(昭和53年度毎日出版文化賞受賞) ②
◇両親を尊敬し、誇りに思っています 中3 竹野冨美子
私には、両親はいません。
弟とふたりきりの姉弟です。とても寂しくとても心細い時はよくあります。
この寮にいてもです。
もう中学2年生だっていうのに、おとうさんやおかあさんのいる子がうら
やましく、また、ねたましくてしかたありません。でも、こんな時
「いずれ、みんなの両親だって死んでしまうんだ。私の両親はみんなより早
く死んじゃっただけなんだ」
と自分に言いきかせています。
私の父は、他の人が見ると私のおじいさんではないかと思うほど古く、私
が生まれたとき50さいくらいで、もうすでに寿命の半分は過ぎていました。
父は昔、高校の先生をしていたらしく、教育には特別にきびしく、私はよ
くしかられたものでした。テストを父に見せては、父の顔色をよくさぐった
ものでした。
こんなようですと、教育パパゴンみたいにすごい人と思いますが、全然反
対で、短気なところもありましたが、私には優しく、私のいうことならなん
でも聞いてくれました。
昔から身体が弱く、ろく膜という病気にかかり、肺をひとつとり、残りひ
とつの肺で、生きていた父でした。私はこんな父の性格を受けついだせいか、
短気で、すぐムカッとするほうです。
また、こんな父の影響を受けてか、時計、ひらがな、カタカナは、幼稚園
に上がるまでには全部覚えてしまいました。無論、幼稚園は一年
保育でした。
私はこんな父が大好きで近所の人に笑われたことがありました。たしか、
私は4才くらいだったと思います。
夕方で、父はすでに仕事から帰っていました。私は、近所の男の子達と遊
んでいましたが、途中つまずいてころんでしまいました。私は有名な泣き虫
で、このときも大声でワンワン鳴きましためで、近所のおばさん達が来て私
を起こそうとしましたが、私は道路にへばりついて「おとうちゃん、おとう
ちゃん」といっては泣きました。
こんなふうでさすがにこまりはてたおばさん達は、おとうさんを呼んでき
てくれ、最後には、おとうさんに起こされ抱かれて家へ帰りました。父は、
何もおこらず、ニコニコしてとても気げんのよい顔でした。
こんなことがあってから、近所の人たちは
「富美ちゃんは、おとうさん子だねえ」
「甘ちゃんだねえ」
などとよくいわれました。一番楽しい時でした。
しかし、こんな父が、昭和43年元旦を過ぎ10日ぐらいたつと、
お正月
中の無理がたたったのか、かぜをひきねこんでしまいました。私はいつも父
のそばについていました。
友だちの家にも遊びにいかず、毎日ついていました。あまりに、治りがお
そいので医者に見せると「ただのかぜです」というので安心しましたが、よ
くなるどころかどんどん悪くなっていくばかりで、父は食事もしなくなり、
食べるものといえば、私がいれた苦いお茶でした。ものすごく苦いお茶でし
た。父はそれを一杯飲んでは、喜んで
「死なないぞ死なないぞ」
って言っていました。でも、父がこんな事をいったのは初めてで、いつもな
ら
「もう死ぬ、もうだめだ」
って言っていましたのでとても心配でした。
その予感はずばり当たり、もう一度医者に見せたら肺炎だからすぐ入院さ
せなさいといわれました。
病院へは、私と弟は連れてゆかれずに、母とその他の人がついてきました。
あとは父の具合を知らせる電話を待つだけでした。同じ日の8時
「きとくだからすぐ来るように」
との知らせで、すぐ病院にいきました。車の中でおちついてはいられず、心
臓がドキドキ高鳴っていました。私は20分ごろ病院に着き、父の所までと
んでいきましたが、すでにおそく、15分に亡くなって、二度と帰らぬ人と
なっていました。
1月31日午後8時15分、水曜日、天気は晴れでした。
次の日の朝、へやに母がよりそって父はねていました。鼻にわたをつめて
うす紫色の顔でねていました。母は何か思いつめているようすでした。父は
「最後まで私と弟の名を呼びながら死んでいったんだよ」
って母はいいました。私は、父が本当に死んだのかしらなんて思っていて
「優しそうな顔でねている父がもうすぐ目をさますのではないかしら」
などと思ったりして、なかなか信じられませんでした。
母は父が死んだショックやいろいろで、身体はつかれきり、悪かった
心臓、
じん臓、
肝臓がよけいに悪くなり、医者に、入院をすすめられましたが、母
は断わりつづけました。
母は足は
むくみ、呼吸は荒く、毎日、私に足の裏をふんでくれと頼みまし
た。私は、私達がいるからおかあさんは入院しないんだと思い、喜んでふん
であげました。
でもとうとう私が4年生の時入院しました。浜松市立病院に…夜、弟は泣
きました。私はどうなぐさめたらいいのやらとてもこまりましたが、なんと
かなぐさめ、泣きやましました。
次の日の朝から私は自転車で弟を幼稚園へ連れて行きました。
夏はムカムカとむし暑く、冬は、北風がつめたく、4年生の私にはとても
こたえました。学校の先生はこういうことから、遅刻も許してくれ、優しく
親切にして下さいました。もうこのころから、施設に入る話しはありました
が、母も断わり、私もいやだったのでがんばって断わり続けました。
私ほおとうちゃん子でしたので母との思い出はあまりありません。いろん
な所へつれていってくれたのはおとうさんですし、おふろもおとうさんと、
はいっていましたので…。
でも私の心の中にしまってある思い出が一つ二つあります。よくかみなり
がなるとへそをしまいなさいといいます。母はよく私にいい、かみなりがな
ると
「おへそはしまってある、出してあると、かみなりさまに食べられちゃうよ」
っていわれました。
「おかあちゃんはね、小さい時おへそ出していて食べられちゃったんだよ」
なんて言って私を不思議がらせました。母はこんなふうに言っては私達に注
意してくれました。明朗で、おしゃベりで、おもしろい母が大好きでした。
母が入院中、私と弟は水ぼうそうにかかり、熱が出て身体中、ブツブツに
なった時、母は絶対安静だったのに、看病にきてくれました。氷で頭をひや
し、私なんか足の裏にもいっぱいブツブツができていたくて歩けませんでし
たので、母におんぶしてもらい、トイレなどに行きました。
母は苦しそうな顔を一つ見せませんでしたが、私はだいぶ無理しているよ
うに見えました。水ぼうそうが治るとすぐに、はしかにかかってしまい、ま
た母をひきとめてしまいました。
私は、母にすまないと思いながらねていました。そして思ったより早く治
り、これほど今までに母に感謝したことほありませんでした。そして、また
母は病院にもどり絶対安静の生活にもどりました。
そして5年の5月ごろ寮に入るのが決定し、私はいやでいやでたまりませ
んでしたが、母の病気が少しでもよくなるのならと思いこの寮に来ました。
でもやはり、くるべきときはくるもので、11月の面会を最後にもう二度
と話すときはこなくなってしまいました。
12月25日、母が意識不明だと寮に電話がかかり、私はまさかと思い、
弟と病院にいきました。母は個室に移されており、ねているようでした。病
院の
看護婦さんははげましてくれ、私もおかあさんにかぎってまさかと思っ
ていました。
病室は暗く重苦しく不気味でした。母は時々のどに何かつまったようなせ
きをしては、荒く苦しそうな呼吸をしていました。こうなった原因は、心臓
からよごれた血液がせきずいのところにつまり、意識がなくなったのでした。
母は心臓べん膜しょう、肝臓、じん臓の三つが悪くどうしようもない身体
でした。つまったのを取るのにも命が保障されていませんでした。
そして、また意識がもどったとしても、もとどおりになれるのではなく、
どこかに欠かんをもつようになってしまうのでした。
次の日、おばさんが一時問ばかり、いなかったとき、弟が母を見て
「おねえちゃん、おかあさんののど少しか動いていないよ」
っていいました。私はドキッとしました。どうしてよいのか迷いましたが、
すぐ看護婦さんを呼び、先生を呼びました。先生は、脈を調べると、
「りんじゅうだな」
と小さな声で言ったようでした。私は耳のさっかくだと思いましたが、看
護婦さんが
「おかあさんね、死んじゃったのよ、元気だしなさいね」
っていうともう涙でいっぱいで、大声で泣きました。病院の人が、おばさ
んやいとこに電話をかけてくれ、すぐ遺体を家へ運びました。たくさんの
人がそう式に来てくれ、すばらしいおそう式になりました。おかあさんは
もう遺書も書いてあり、親せきの人はもちろん、私も驚きました。それを
たくさんの人が読むと、皆泣いてしまいました。
これには、注意などが書いてあり決してうまい文章ではありませんでし
たが、よけいに悲しくて泣けてきました。
わたしは、おとうさんも、おかあさんも尊敬しています。私の誇りに思
っています。だから私は、父のようなだんなさんをもらい、母のようなお
かあさんに早くなりたいといつも夢見ています。
※ 父病死後、母は過労から入院、そのため入寮.その後母もついに病死。
(1974年 S寮)
私が小学生だった頃、校区に施設がありました。
そこの施設から通っている子が休んだときに、給食のパンを届けに行って、子供の多さにびっくりした記憶があります。
事情を聞くわけにはいかず、あまり打ち解けられなかったです。私の場合。
by 楽しく生きよう (2012-01-22 05:28)
楽しく生きよう さん
nice!とコメントをありがとうございます
わたしも子どもなりに気を遣って接することが多かったように思います。
by ハマコウ (2012-01-22 06:29)
「いずれ、みんなの両親だって死んでしまうんだ。私の両親はみんなより早
く死んじゃっただけなんだ」
14歳の中学生が、こんな思いで生きているなんて。胸が締め付けられました。よいものを紹介して頂きました。
by masashi (2012-01-22 11:37)
コメントありがとうございました。更新が2週間ぶりとなり、今頃ですがお返事書きました。
毎回すごい量の読書記録を書かれていますね。毎回読むと心に染み入る物があります。子供に読ませたいと思います。
by yomogi (2012-01-22 13:16)
masashi さん
nice!とコメントをありがとうございます
幼くても子どもなりに一生懸命に考えていることが分かります
うわべだけ見ていてはいけないと 教えられます
by ハマコウ (2012-01-22 16:35)
yomogi さん
nice!とコメントをありがとうございます
本を読んで納得できる文章と出合うと大きく頷いてしまいます
新しいこと 知らないことが分かることを 大変嬉しく感じます
参考になれば嬉しく思います
by ハマコウ (2012-01-22 16:48)
もう少し、「当たり前の日常」に感謝しなければ・・・・と感じました。
by seawind335 (2012-01-22 20:18)
わたしは身障と多くの病気を抱えて結婚しました
そんな私に一姫二太郎を授けていただきました
何時、その時が来るかと覚悟しながら、愛情いっぱいの
思い出を子どもに私に刻み毎日過ごしています。
つい最近まで一緒にお風呂に入ってくれた娘も今年は中三、
希望の高校に入れるよう気を配り
作文に書かれたお父様のようになりたいですね
最近はママに教育で苦労させたくないので
「死なないぞ死なないぞ」と同じくがんばっています。
by ディブ松本 (2012-01-23 00:54)
seawind335 さん
nice!とコメントをありがとうございます
家族とふつうにいられる幸せ ありがたいと思います
by ハマコウ (2012-01-23 05:10)
ディブ松本 さん
ご訪問 コメントをありがとうございます
ご家族と幸せに生活していらっしゃるのですね
一日一日を大切に - わたしもそうしなければ
ついつい自分の娘には厳しいことを言ってしまいます
娘さんの希望高校合格をお祈りします
お体を大切にしてください
by ハマコウ (2012-01-23 05:14)