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「六所神社に奉納された楠正行の剣 おらが先祖は大楠公 町ぐるみが小楠姓の浜栓市堤町一帯」出典不明 ②(下) [読書記録 郷土]

今回は 3月9日に続いて 出典不明はですが(おそらくは『東海展望』誌か?)
「六所神社に奉納された楠正行の剣 おらが先祖は大楠公」2回目(下)の紹介です


隣の町のお話をおもしろいなあと思って読みました
いかにも伝説と言った内容です


わたしの町にも小楠姓は多いのですが もとは堤町の出だとよく言われています

「小楠伊吉さん」の家を知っていますが この話は知りませんでした


遠州地方には南朝方の話が残っています
大河ドラマ井伊氏の話にも…




「…果して楠木氏の系譜を継いでいるかどうかは疑問の余地があるとは思いますが、われ
 われはわれわれなりの解釈をしています…」

- この言葉がスキです



一昨日は日帰りで京都へ行きました
行きは3時間 帰りは4時間
少し時間ができたので府立植物園に行きました
特別展 身近な雰囲気があたたかく感じました
「ミツマタ」は本当に三又なのですね
2.JPG3.jpg1.JPG4.JPG



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☆「六所神社に奉納された楠正行の剣 おらが先祖は大楠公 町ぐるみが小楠姓の浜栓市堤町一帯」出典不明 ②(下)


◇伊之助と伊左衛門

 しかし伊兵衛による南朝方の志士結集はそうたやすいものではなかった。


 第一遠江は今川氏の勢力圏内にあり、土豪のうちにも今川氏に従属していた者が少くな
かったからである。


 伊兵衛が遠江で東奔西走している間に天下の形勢はガラリとかわった。

 九州より東上の足利勢の大勢を前にした正成は、足利尊氏に和議を申入れたが聞き入れ
られず、わずか700騎をもった。


 正成の子正行も父の遺風をうけ南朝につかえ、一時は勢力をもりかえしたが、南下した
高師直の大軍と河内国四条畷においてぶつかり、壮烈な死をとげた。


 それより前南朝勢危し!とみた正行は遠江において勤王の志士を募っていた小楠伊兵衛
のもとに家来を発し、援軍をたのんできたのである。

 正行は使者を遠江に出発させるにさいして、自分の持っていた剣を手渡し、「伊兵衛に
この剣を…」とたのんだ。

 剣をしっかり抱いた家来は夜を日に次いで東海道を東下遠江についた。


 が、しかし、伊兵衛には援軍を組織するだけの兵がなく、自分自身の身体さえ自由がき
かなくなっていた。


 そこで正行の剣を六所明神に奉納し、ただひたすら南朝の勝利を祈願し続けた。


 ところが祈りも空しく、正行四条畷の討死の報せに、伊兵衛は刀をすてて一百姓として
堤村に帰農してしまったのである。


 正行の剣はそのまま六所神社に宝物としてつたえられ、昭和も戦前まで保存されていた
というが今はない。


 伊兵衛には3人の男子があった。長男伊兵衛(襲名)、次男伊之助、三男伊左衛門であ
る。


 長男伊兵衛の子孫はその後数代にわたって堤村に居住、新家や分家を生んでいったが正
統の伊兵衛家(何代かは判らない)は江戸時代に下諏訪に移っていったという。


 下取訪では生糸問屋を開き、屋号は本祖橘家の名に因んで橘屋と呼んでいたという。 

  
 次男伊之助は堤村の西のはづれに分家した。屋敷を構えたところは堤から小沢渡に行く
道路の北側で今は畑地となっている。


 この伊之助の流れも新家や分家をつくり野崎一帯で小楠姓を名乗っているのはみな伊之助の一統であるという。


 三男伊左衛門は伊之助の屋敷の西側に分家したといい、その後裔が現在堤西に住んでい
る小楠伊吉さん(教員・倉松)である。





◇好徳寺と観音堂                                

 伊吉さんの父親は伊一郎(故人)といい、同家は代々名前に「伊」の字を用いるしきた
りになっているという。


 この伊吉さんの家を土地の人は本家とも呼んでいる。


 どういう理由からかは判らないが、堤町にある唯一の寺福寿山好徳寺の檀家筆頭も伊吉
さんの家になつている。          .


 好徳寺は六所神社から西方50m、集落のほぼ真中にあり、臨済宗方広寺派で大通院末
として戦国時代に開かれた寺である。


 開山は臨室源和尚で、寺記によると文禄3年(1594)4月12日の示寂、中興は6世竜南
長和尚で元禄5年(1692)4月に没している。


 その後幾多の盛衰を重ね、現林住職は昭和10年にこの寺にきたという手塚禅染師。

 檀家は現在60余戸であるが、このうち80%が小楠姓で、3人の檀頭も小楠三夫、小
楠伊吉、小楠金次郎、といづれも小楠姓である。



 ところで堤における小楠一統の始祖となつた伊兵衛が住居を構えたところは六所神社南
側であったというがその後竹藪となった。


 この薮のなかに、伊兵衛家の門の土台に使ったという石が放置されていたが、堤村の開
発者であり、楠正成の流れを吸む同家の門石をそのまま雑草のなかに置いておくのは申し訳けないと好徳寺の境外堂である観音堂の前に移した。

 現在観音堂の前に置いてある25の大石がそれである。


 六所神社が堤に創建されたのは何時頃かは判らない。伊兵衛がこの土地に来た時にはす
でにあったものと考えられるが裏付けはない。


 ところで堤という地名はいつ頃から使われるようになったのかをみると保図帳の中にあ
る浜松の浦の条に


 長明の海道記に日く、引馬り此所を打過ぎ浜松の浦に来りぬ長浜砂土深くして、行けど
 も帰るが如し、堤の由、云々


とあるから、今から320年位前の正保の頃にはすでに堤と呼んでいたことが判る。


 伊兵衛はそれよりさらに300年前に土着しているわけだ。


 さて堤町における小楠一統が楠正行の流れを汲むとする説に対し堤町の現自治会長小楠
竹雄さんは
 

「近頃の学校では大楠公、小楠公の話を教えなくなり、戦後はすっかり陽かげ者になりま
 したが、私達は親から正成の血をひいているのだからしっかりやらなければいけない…
 と教えられたものです、果して楠木氏の系譜を継いでいるかどうかは疑問の余地がある
 とは思いますが、われわれはわれわれなりの解釈をしています。あえて史料にこだわる
 こともないでしよう…」


と話していた。

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コメント 2

mimimomo

おはようございます^^
自分のルーツは何となく気になります。あるところで
楠さんに出会いましたが、その方曰く「楠と一文字の場合楠正成の子孫の可能性大。楠木と`木’が付けば違うと教えられました」とおっしゃっていましたよ。いろいろ解釈がありそうです。
by mimimomo (2017-03-13 06:59) 

ハマコウ

mimimomoさん ありがとうございます
いろいろないわれを楽しむことを面白く感じます

by ハマコウ (2017-03-13 19:47) 

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