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「六所神社に奉納された楠正行の剣 おらが先祖は大楠公 町ぐるみが小楠姓の浜栓市堤町一帯」出典不明 ①(上) [読書記録 郷土]

今回は 出典が分からなくなってしまったのですが(おそらくは『東海展望』誌か?)
「六所神社に奉納された楠正行の剣 おらが先祖は大楠公」1回目(上)の紹介です


隣の町のお話 似たような話はあちらこちらにあるようですが興味深く読みました


前の休日に この町を犬を連れて散歩していますと 幼・小・中・高の同級生に会いました
ご自宅の裏で畑作業の仕舞支度をしているところでしたが 彼の名前も「小楠」姓です
小楠姓の多い町です


遠州地方は南朝方の伝説がたくさんあります
この話もその一つかと考えます

一邑さん やってくれないでしょうか
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☆「六所神社に奉納された楠正行の剣 おらが先祖は大楠公 町ぐるみが小楠姓の浜栓市堤町一帯」出典不明①(上)


 浜松市の南部新津海岸の近くに堤町という戸数70戸ほどの町がある。


 旧浜名郡新津村堤で、江戸時代には敷地郡堤村として、米津、小沢渡、新橋、などと共に
浜松の井上河内守の領下にあった。




 遠江風土記伝によると


「堤村高24石7斗4合、海に属る、波除堤高さ巾定まらず、舞阪宿に至る間、南間の波涛
 を除く…」


とある。


 つまり堤の地名は海岸に構築された堤があったところからつけられたものであろう。


 浜松の市街地を西に東海道(国道1号緑)を進むと、浜名郡可美村との境界地点で道路
が右にゆるやかなカーヴをみせているが、そのカーヴ地点から東海道に分れ、南にのびて
いる市道を米津海岸にむかって1㎞ほど入った農村地帯が堤町である。


 今でこそ(おそらくは40~50年前=ハマコウ註)70戸を数えるようになったが、明治から
大正そして昭和も戦前までは50戸たらずの小部落であった。

 しかも、50戸のうちの80%が小楠姓を名乗っている特異な同姓部落である。


 おもしろいことには、この小楠一統の人たちはすべて自分たちの先祖は大楠公楠木正成の
一族であり、後裔であると信じ、忠臣華やかなりし戦前までは大変な鼻いきであったという。


 今では正成、正行の相場下落で、若者たちは口にせぬようになったが、里の古老の頭の中
には、いまだ楠公の権威が生きているのである。


 では、堤町の小楠一族と楠正成とは一体どういう関連をもっているのであろうか…。


 この点については確たる史料も根拠もなく、将来においてもこれを裏づける史料の発見も
まず期待出来ないだろうからいきおい口碑伝説にたよる以外にはなかろうが、本誌編集部が
ルポしたところによると次のような巷談が成立した。





◇南臣・楠木伊兵衛

「神主小楠の祖は楠正成公家の士族にして、君公より姓を賜ひこの地に来り、引馬海道堤新
 田を開発し、土民となり、正平3年君公正行卿四条畷合戦の時、明神へ皇軍勝利を御祈願
 ありしと。又寛文6丙午年、領主太田備中守資宗殿、御造営ありと云ひ伝う。今小楠家は
 分家一族45社頭と共に盛なり」


 この古文は郷土雑筆遠南のしぶきにみえているものであるが、小楠と楠正成とを結びつけ
ている資料としてはこれだけであって、これも良質の史料ではない。古文のなかにみえてい
る「明神へ皇軍勝利を御祈願云々」とある明神とは現在堤街にある六所神社(戦前まで村社)
のことで、土地っ子は六所明神とも呼んでいる。


 東海道から分かれて米津海岸にゆく道路の西側にある森が六所神社で、神社の道をへだて
て東側にある堂宇が、馬頭観世音をまつる観音堂で、昔は好徳寺(堤町)の境外仏堂であっ
た。   


 ところで小楠一族の初代は小楠伊兵衛を名乗った南朝の武士であったという。

 その伊兵衛が遠州のこの海岸にやってきたのは遠江において南朝方の臣を募るためで、時
に南北朝時代であった。

 楠正成の出身については不詳なところが多く、決めつけることは出来ないが、河内の土豪
であったことは間違いない。


 農村部における新興勢力を背景に台頭、やがて後醍醐天皇の討幕計画にまっさきに参加、
赤坂城や千早城にたてこもつて奮戦建武中興後は検非違使左衛門尉兼○○○○の反乱にあっ
たが他の諸将と共に尊氏軍を破り九州に走らせた。

 
 しかし軍勢をたてなおした尊氏は20万の大軍をもって東上してきた。

 これよりさき、正成はなんとしてでも自軍の拡大強化をしなくてはと一族の一人伊兵衛を
呼び、遠江において勤王の士を募り勢力の結集をはかってもらいたい…と頼んだ。


 伊兵衛の遠江入りはこうした動機によるものだったという。


 伊兵衛は一族と共にはるばる遠江の土を踏み、小楠の姓を名乗って堤に居を構えた。その
頃伊兵衛は楠木を名乗っていたが、世をしのび、敵の目をくらますために小楠としたものだという。


                                   (つづく)


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